わたしたちの暮らす神様のお庭の姿や声をお届けできたら幸いです(*´ω`*)

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池のカメさんを観察中。


こう見えて三十路です、この人。


(「子供写真」のジャンルにUPってみました:笑)





2012.08.13 / Top↑
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小さな願いのはじまり

灯る火を両手で


風の強い日には 消えそうになってるけど

守るように 大きくなるように



きっと 壊れた街と それを見てる 取り残された瞳の

銀の光る涙の 先をつたい 泳いでいこう



salyu VALON-1より





***



この曲を初めて聴いたのは2004年
こんな気持ちで聴く日が来るとは想像もしていなかった。


なのに何度も聴く度に胸が苦しくなって涙が溢れた
”きっと 壊れた街と それを見てる 取り残された瞳の...”


見た事もないはずなのにありありと映像が浮かんだ


そして3.11同じ光景を画面越しに目の当たりにした。



この言葉を書いた小林武史氏の魂さんは、
そしてわたしの魂さんも
あの日起こることを知っていたのだろうか・・・?


人は皆自らに起こる全てを了承し
魂を入れる器を決めて生まれてくると言う


そして多くはその事を忘れて日々生きているだけなのだと


だとしたらあの日


瓦礫に埋もれた方たちは
津波に飲まれた方たちは


巻き込まれた「犠牲者」などではなく
過酷な運命を「選びし者」なのではないか


生きたいと思って死んで行くことを選ぶ魂
生きたいと思う者を救い自らの命を差し出す魂


全てに尊い神が宿っている


残されたわたしたちはただ
その出来事に行いに
教えに



頭を垂れ
涙の先を越え
生きて行くしかない






salyu VALON-1

↑何度聴いても体が震える程の感動を覚えます。



2012.03.20 / Top↑


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この国の女性たちの頭の上に
高く積まれた果物や荷物などを見ては
「すごい!」「スーパーバランス!」と興奮していた

だけど彼女らが頭の上に物を乗せて運ぶ行為は
自らの体の最も高い位置から供物を神に捧げるという
受け継がれてきた習慣からのものだと知り

興奮は尊敬の念へと変わった。

重いものだと10キロ以上はある果物や供物を
両手を離して運べるようになることが
バリの女性の「一人前」の証なのだと

長年供物を運び続けた者だけが体得できる所作。

背筋をピンと伸ばし
まるで何も乗ってなどいないかのように
自然に前を向いて歩く彼女たちの姿は美しい。


(バリ島:ウルンダヌ寺院より
***
たまたま訪れた日がオダラン(建立祭)だったようです(*´ω`*)
敷地内はおめでたい色とされる黄色と白の布やのぼり旗で飾り付けられており
参列する男性も傘やのぼり旗を持っていました。

広場では善の聖獣と悪の魔女の戦いを描いた
バロンダンスが演じられていました
(人が多すぎて写真は撮れませんでした^^;)。

”この世界は「善と悪」「陰と陽」「生と死」
ふたつの相反するものによってバランスがとれてる”という
ヒンドゥー教の教えを具現化したダンスだそうで
その戦いには終わりがなく最終的には
「ふたつが共にあってこそ世界は完全なものになる」
という結論に辿り着くのだそうです。

ダンス系は時間を取るので
今回スケジュールに入れていなかったのですが
思いがけず見ることができて良かったです(∩∀`*))





2011.07.12 / Top↑
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「じゃあわたしも祈ってますね!」

なんて

挨拶代わりのように使っていい言葉ではなかった。


供物を捧げ

身を捧げ

時間を捧げ


彼らは祈っていた。


『神』の前で

頭を垂れ祈るその姿こそ

人の本来あるべき姿なのかもしれない。


突然旅に出たくなったわたしは

『どこの国か、わたしを呼んでくれませんか?』と
誰にともなく聞きながら旅行サイトを眺めていた。

相方は第一声に「バリに行きたい」と言った。

そしてこの国に降り立った。

人生二度目のカルチャーショック。

やはりわたしはこの国に呼ばれたのだと感じた。


島の神々に。



2011.07.07 / Top↑
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誰(た)がために鐘は鳴る、と尋ねるなかれ。

そは常に汝(な)がために鳴るものなり



OSHOの講和より抜粋
↓↓↓
その鐘が誰のために鳴っているのかを
訊きに人をやってはいけない。
その鐘は常に汝のために鳴っている。

たった今死んだのが誰だとしても、
その死は常に自分の死だ。

なぜなら
人の死はすべて
自分は永久にここにいるのではないということを、
思い出す縁(よすが)だからだ。

人の死はすべて
目を覚ますための機会だ。

死がやがてやってくる前に
死を超えたものを達成するために
生の機会を使いなさい。

この瞬間をどう使うかはその人次第だ。
恐慌に陥ることもできれば気が違うことも有り得る。
恐怖にしびれ涙にくれることもできる。

だがそれでは自分の家族にも自分の友達にも
或いは自分の愛する者にも何の役にも立ちはしない。

それは自分にとっても何の役にも立たない。

死がやって来る前に
死を超えたものを達成するために
生の機会を使いなさい。

危険にさらされているのは自分の両親、
自分の友人、自分の愛する者だけではない。

全世界が危険に晒されているのだ。
今日危険な目に合うものもあれば、明日危険な目に合うものもあるだろう。
が、いずれにせよ危険はある。

としたら、その危険の超越の秘法を学ぶのだ。
その秘密というのはもっとトータルに
もっと全身全霊で生き始めるということだ。

そうすれば自分の中に
死の手を触れることのできないものを見つけることができる。

それこそが唯一の避難所、唯一の防衛、唯一の安全だ。

もしあなた達が自分の友人家族を助けたいと思うなら
その人たちにこの秘密を教えてあげなさい。




(今震災後色々なことを考えすぎて
眠れなくなったり涙が止まらなくなったり

こんなことしてたって何にもならないとわかっていても
心から悲しみが溢れ出し辛くて苦しくて止まらなかった

「あの人はわたしなんだ」
「でもじゃあどうしてあの人なんだろう」

”これを教訓に学びましょう”
”この経験を活かして今後に役立てよう”

そんな前向きな言葉すら残酷に思えた

”地球にとっては必要な浄化”
”大きな宇宙の計画のひとつ”

スピリチュアルな視点すら救いにならなかった

『死は全てを別つものではない』
『魂は不滅』

そうだとしても

瓦礫に埋もれた我が子の亡骸の前で
泣き崩れるていたあの父親は
車の中で息絶えた娘の頬に
手を触れていたあの母親は

愛という深い絆があるからこそ
身を引き裂かれるような
生き地獄を味わっている

幼い娘と妻両親全てを失い
自ら命を絶ったあの男性は

その地獄から抜け出す為に
抜け殻になった自らの魂を救ったのだろう
生きる為に死んだのだ

死によって絆と記憶をも失われるなら
人はこんなに苦しむことはないのに

温かな記憶優しい思い出
多くの愛の糸を紡いだ者ほど
絶たれた時の苦痛は大きい

それでも人はひとりぼっちで生きてはいけない
愛したい愛されたい幸せになりたい

心はまた糸を紡ごうと
細い糸を作り出すだろう
いつか誰かと愛の糸を紡ぐ為に
それが”人”と言う生き物だから

死が顔を近づけて来たとしても
生という輝きから
最後の一瞬まで目を逸らすことはできない

輝きに身を焦がしながら
燃え尽きるまで走り続ける

神様やっぱり
生きることは大変なことだね

ありがとう
おつかれさま

生きてくれた命に
生きてくれている命に)





2011.04.07 / Top↑
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